Missa pro Paceの音楽 |
1-1 Kyrie eleison |
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このモチーフは一番始めに頭に浮かんでいた。サンタナのライブ・コンサートに行った直後、このキューバ音楽っぽい冒頭のモチーフが勝手に頭の中で鳴り響いたのだ。しかしながら、
「いやいや、こんなふざけた音楽でミサを始めたらいけませんよね」
と自分で否定していた。
それが終曲のDona nobis Pacemが出来た後、あらためてこのメロディーを弾いてみたら、あれっ?案外いけるかも知れないと思った。終曲のソドファミーレドソーのメロディーに対して、ラドファミラとモチーフに関連性があることに気が付いたからだ。
「え?これってもしかして、すでに仕組まれていたってこと?」
と驚いたことを思い出す。
結尾では、グレゴリア聖歌風の朗誦が印象的であろう。そこにウィンド・チャイムが神秘的にからむ。
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2-1 Gloria in excelsis Deo |
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立教大学の応援歌セントポールからヒントを得て作ったゴスペル調の音楽。でも出来上がってみたら、そんなにセントポールには似ていない。男声合唱の特性を生かした楽曲。
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2-2 Qui tollis peccata mundi |
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いつも練習の時にアカデミカ・コールのみなさんに、
「これは東京ロマンチカなんだから、もっとムード歌謡のように歌って!」
と言って笑われている曲。後半のアルト・サキソフォンのアドリブ(ホントはアドリブではなく書かれているけれど)は、我ながら気に入っている。
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2-3 Quoniam tu solus sanctus |
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2-1と同じ曲想で始まるが、コンガのリズムが倍テンポになっていて、激しいアフロキューバン。最高潮に盛り上がった後、フーガに突入する。フーガは元来厳格な様式を持っている楽曲。最初に作ったのはもっと模範的な展開をしていたので、作曲科の試験だったら良い点が取れただろうが、途中でつまらなくなり、破棄して現在の音楽に仕上がった。聴衆としてはこちらの方がずっと素敵。人間も少し崩れているくらいが魅力的なのだ。
そして結尾はディキシーランド・ジャズのお決まりのエンディング。こんなことしてたら、バチが当たるかも知れない。
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3-1 Credo |
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この曲の発想はラップ。最初は歌詞の多いCredoを、本当に音程のないラップでスッキリさばいていこうかと思って作り始めたけれど、そうするとダラダラと安っぽい音楽になってしまうので、音を付け、さらに対位法的にフレーズを重ねていったら、その結果どの曲よりも難しい音楽になってしまった。ここでは、パーカッションをコンガからカホンに変えて雰囲気の変化をねらっている。
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3-2 Crucifixus |
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心臓の慟哭のようなリズムが支配している。その上に合唱がキリストの十字架という悲劇を切々と歌っていく。後半のアルト・サキソフォンの激しいソロは、胸を掻きむしられる私の心情。
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3-3 Et resurrexit |
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恐らくこの曲をこのように書いた作曲家は誰もいないだろう。私としては冒頭からフォルテで「蘇りました!」と賑々しく書く気にはとうていなれなかった。これは復活の朝の情景。頭上で鳥が啼いている。大気は澄み切っている。そして遠くから聞こえてくる賛美歌。復活の喜びがじわじわと、しかも確実にやって来る。その喜びは、やはりゴスペル調で表現してみた。
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3-4 Et in Spiritum sanctum Dominum |
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3-1同様、ラップの基調とした音楽。
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3-5 Festa di Credo |
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こんな題名の曲は元来のミサ曲には当然のことながらない。しかもFesta(お祭り)とは何事ぞ!とお叱りを受けるのを承知の上で書いたサンバの曲。Credoの多い歌詞を、それぞれの声部にランダムに配置し、喜びに満ちた曲想で進んでいく。
何?歌詞が重なりすぎて分からないって?ああ、それはいいのです。みんなすでに一度歌われたものだから。
それよりも、この曲の発想には、かつて1964年の東京オリンピックの閉会式を見た驚きが元になっている。開会式の選手達の整然とした行進とは裏腹に、閉会式では、各国の選手達が入り乱れ、談笑し、抱き合いながら入場し、カオスとも言える状態であった。それが私には、世界が平和になったあかつきの理想的な姿のように感じられたのだ。
それと、ミサにはあるまじきYei!などという掛け声が混じることをお許しいただきたい。神を賛美する喜びに制限をかけてはいけないのです。Yeiがいけないのなら、HallelujahもHosannaもいけないことになってしまいます。
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4-1 Sanctus |
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Sanctusは、ただのパンと葡萄酒がキリストの体と血に変わる「聖変化」の前の特別な祈り。ミサでは毎回「聖変化」という奇蹟が起こるのだ。しかし、それを成し遂げるためには、会衆の意識も天上に昇らないといけない。
それ故、この曲で私は3にこだわった。3は、三位一体などの特別な数。ゆるやかな3拍子で始め、Allegro
vivaceに入ると8分の12拍子の中に、さらに大きな3拍子が盛り込まれる複合拍子。キラキラと輝くイ長調の音楽で、私なりの天上の世界を描いたつもりである。
後半のHosannaは、絵に描いたようなアフロキューバン。コンガが典型的なトゥンバオというリズムを叩き出す。
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4-2 Benedictus |
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癒やしに満ちた独唱で始まり、合唱に受け継がれてふくらんでくる叙情的な音楽。後半はまたアフロキューバンのHosanna。
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5 Pater noster |
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通常のミサ曲には、「主の祈り」が含まれていないが、これは年間を通して歌われるミサ通常文の中に組み込まれているし、バチカンからも、Credoと同様に、唱えるよりも歌われることを薦められている祈りなので、あえてこのミサ曲に組み込んだ。
冒頭は天上的な世界を描き出すが、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」の箇所から、地上的な重さのある音楽に変わる。ここでは、アフリカのジャンベという低音の出る打楽器を使用した。個人的には、穏やかでとても好きな曲。
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6-1 Agnus Dei |
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この曲よりも終曲の方が先に出来たことはすでに書いた。そのDona nobis
pacemが、当初予定していたよりも静かな曲になったので、その前のAgnus
Deiは、常識的な曲想をはずれて結構激しい曲となった。その背景には、ベートーヴェンの作ったミサ曲ハ長調のAgnus
Deiが私の背中を押してくれたというのがある。
Agnus
Deiは、ミサの後半、いよいよ聖体拝領が行われる前の曲だ。ミサが進んでくるにつれて、会衆は御言葉を聞いたり、司祭の説教を聞いたり、信仰宣言をしたり、聖変化を体験したりしながら、だんだん「平和と一致」に向かってくるが、それが行為としての「平和の挨拶」においてひとつの「平和の実現」に至る。その直後、司祭はホスチア(キリストの体に変化したパン)をこの「平和の賛歌」と共に割くのだ。
だから通常は穏やかで平和に満ちた曲となるのであるが、ベートーヴェンのミサ曲ハ長調のAgnus Dei
では、宗教曲なのに、こんなロマンチックでいいの?というほど息詰まる情熱に満ちた曲である。それがDona nobis
pacemになるときに劇的な変化を遂げる。
そのドラマチックな展開のアイデアを借りた。勿論、曲想そのものはべートヴェンとは似ても似つかないので、いわゆる真似ではない。さらにオーケストレーションする時に、ピアノのパートに情熱的な細かいパッセージをちりばめ、まるでショパン・エチュードのようなパッションに満ちた曲となった。
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6-2 Dona nobis pacem |
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曲の成立については冒頭に書いたが、最初は、この曲の最後をFesta di
Credoのような速くて楽しい曲で終わろうとしていた。ところが、作っていく内に、どうしても消え入るように終わるしか方法がなくなった。作っているのは自分なので、どうとでもなりそうな気もするが、そうはならないのが不思議なところ。
お盆の国立の自宅の深夜で、これを作りながら私は不安になった。これは、完成した後、私か三佳代さんのどちらかが死ぬのではないか、とすら思われたからだ。しかし、何度も自分でピアノを弾いてみながら、これはそうではないと確信した。
すなわち、この曲は終わってはならないのである。ずっと、ずっと、永遠に続く平和への希求なのだ。だから、曲の終わった後の静寂にまで想いを残し続けなくてはならないのだ。そしてさらにそれは、“命”に終わりなどないことをも表現している。般若心経は語る。不生不滅、不垢不淨、不増不減と。
ミサの最後では、司祭が「派遣の祝福」というものをする。つまり会衆は、司祭によって聖堂から追い出されるのである。この聖堂内で平和と一致が実現したのだから、今度は世界に出て行って、「平和を作り出す人」となりなさい、という意味なのだ。
すなわち「ミサは終わらない」。次にまたミサに参加するまで、教会の外で平和のための活動をするべきなのであり、その故に、全てのミサは永遠に「世界の平和を目指し続けている」とも言えるのである。 |
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(男声合唱版プログラム掲載文より) |